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ためになる可能性がなくはない訓練講座

外的要因

 人は上手くいっているときは周りの状況が全て己の資質が生み出したものと信じたがる。

 だが、負けが込むとそういう者も周りを見回して己以外のものに原因を見つけようとし始める。

 或いは才能、或いは環境、運、政府、家族、巡り合わせ…これらが原因であると思いたくなる。信じたくなる。

 それこそ人の偽らざる本性であると思う。

 

 別段それが的外れだとは思わない。

 運悪く養鶏場の鶏に産まれれば将来は焼き鳥になる運命だ。唐揚げかもしれない。

 

 そういう限界を認めつつ、受け入れつつ、それでも臆することなく己の望む方向に人生を寄せていくことが幸福には不可欠ではないか。

 外的要因、自分が取りたい姿勢、そこから生まれる失敗を一切悔いるべきではないという三点に関する認識。これが三要点となるようだ。

 

 人間、「より良い未来」や「より良い条件」のためにのみ闘い始めると大変で、それは結果のみが目的であって要は負ければ犬死にとなるわけで、しかしそういう状況には極めて陥りやすい。

 失敗すれば努力やコストが全て無駄になってしまう、という考え方はその最もたるもの。

 

 むしろ「より良いあり方」と言うべきか、己の生き方、己のやり方、そういうものを己の信ずるがままに貫きたいという前提がまずあって、それを貫くためならば不幸になることもやむを得ないという考え方が皮肉にも幸福には不可欠なものだと思う。

人的家畜社会カースト

 なぜ人は己の環境の辛さを自慢したくなるのか。

 これ、僕もたまにしたくなるし純粋に疑問。

 ハンディキャップ理論で片付けられる問題なのだろうか。

 

 シヴロペディア Caste System (身分制)より抜粋:

「身分制では、両親が階層の頂点に立っている人々にとって以外にはわずかな利点しかありません。取り柄や自発性は役に立ちません:もし文化における最高の知能と聡明さを持つものが偶然にも道路清掃者として生まれたならば、そのときは彼は知能が高く聡明な道路清掃者となるのです。彼は僧侶や哲学者、あるいは指導者になる機会をけして得られないのです。」

 

 上記のような理不尽で不合理でクソみたいな社会制度でも依然として続いているわけで、

 いつか正されるはず、なんて考え方はあまり現実を即したものとは言えない。

 

 内乱を起こすか、外患を誘致するか。

 当然、どちらも失敗から極刑のコンボは九割九分九厘間違いない。

 そういう自殺的・究極的な手段を選ばない限り、道路清掃の息子は一生道路清掃して生きていかなければならない。

 

 結局何が言いたいかと言うと、その社会がクソだと個人がいくら努力したところでその個人の待遇が見直されることは決してないというのもよくある話だということ。

 私が悪かったんだろうか、などと考える必要はあまりない。

最強談義

 超能力SFについて色々と空想しているのだが、結局は洗脳系が最強という結論に行き着く。

 最強は洗脳・精神干渉タイプ。

 次点でサーチ・解析系。

 大穴で封印・そげぶ系…こんな感じ。

 

 洗脳系というのは様々な作品で登場するが、そのままだと強すぎるので多種多様な制約を課される。

 主に距離、条件、時間などだ。

 サーチ・解析系は地味だが抜群の安定性を持つ。

 

 まぁ、決闘形式で早撃ち勝負であれば洗脳系も爆発系も時間操作系も何も関係なく、単純に発動が早いほうが勝つだけなんだわ。

 ただ、なぜ洗脳系が強いのかと言うと、要するに戦闘でも強いのに戦闘以外の場面でも汎用性が高すぎるから。

 

 一瞬で人を洗脳できるキャラAと一瞬で人を蒸発させられるキャラBがいたとして…よほどAがアホでない限り、まずAとBは戦闘にすら発展せずBが死ぬだろう。

 自分がAならどうするかを考えれば分かる。

 

 Aは無制限に協力者を増やし、時間が経てば経つほどその数は増え続け、逃げ続けてさえいればどんどん有利になる。

 Bはそうならないように短期決戦を強いられる。

 目に映る人間全てを蒸発させれば良くね、という論は極論餓死エンド若しくは核ミサイルエンドになるので却下ね。

 

 それでまぁ、仮に運のいいBが死に物狂いでAとタイマンになったとしても、ようやく五分の勝負に持ち込めただけなわけだ。不利すぎる。

 

 で、当然洗脳系なんてキャラがいれば自分の居所がバレないように二重三重に防波堤を築くに決まっているので、早撃ち勝負なんて状況を招くことはまず有り得ない。

 

 索敵能力、これが如何に重要かということだ。

 サーチ系が上位にくるのはこの辺に理由があり、洗脳というのは索敵能力の高い超能力者をいくらでも味方にできるのでキング。

 

 その上、洗脳系は戦果も最高だ。

 先の例では、蒸発野郎Bが仮に勝った場合、勝ったという結果と相手の消し炭しか得られない。

 が、Aが勝利した場合は結構な確率でBの能力が丸ごと手駒になる。これは止められない止まらないだろうね。

 洗脳していくと、まるでネズミ講のように優秀な能力を持つ部下が優秀な人材を引き入れて来る…とまさにハーレムスパイラルを形成するのでもはや手が付けられない。

狭量

 現状に満足していない人間は、何かを欲してそれを得ても決して満足せず、心は常に貧しいというのが心理学での暫定的結論なのだそうだ。確かにそうかもしれない。

 

 自身の半生を思い返してみて、

「成績が上がりさえすれば絶対幸せなのに」

「スポーツが上達すれば絶対…」

「恋人ができれば」

「合格さえすれば」…などと、それが実現すれば幸せなハズだったものは結局自分を幸福にはしてくれなかった。

 

 しかしそういう中でも幸福を感じていた時期は必ずあり、きっとその頃は心情が幸福を呼び込む形でオープンだった。

 要するに楽観的だった。

 まぁ人生の2割くらいは楽観的になれる時期があれば上出来だと今は思う。

二乗三乗の法則

 バカみたいに大きい甲殻類は陸上にはいない。

 甲殻類は骨ではなく殻で体を支えているが、これがある程度の重さを超えると限界に達し、自重を支えきれず潰れてしまうからである。

 脊椎動物も同じで、巨人のような大きさになると骨では自重を支えきれなくなり潰れてしまう。

 

 ノミがあの構造のまま人間並みのサイズになったら何メートルジャンプできると思うか。

 正解はゼロメートルだ。

 ジャンプどころか立つことすらできず自重で圧死する。

 

 これが現実だ、などという趣旨の話ではなくて、二乗三乗の法則というのがサイズ差で出てくるということなのだ。

 ある立方体の一つの辺が二倍になると、その立方体の一面の面積は二乗になり、体積は三乗になるということ。

 体積に比例する質量も三乗だ。

 

 つまり、物体は大きくなればなるほど、単位面積あたりにかかる重さが増していく。

 模型サイズでは上手くいく建築がそのままの比率で大きくしても柱が重みに耐えきれず崩れてしまうのはこういう理由だ。

 

 しかし、実は人類がこの法則に気づいた時期は意外と最近で、数百年前までは知られていなかった。

 それなのに人類は大阪城とか作っていたのだ。謎である。

焦燥

 特に期限があるわけでもないのに、一刻も早く上達したい。

 それが挑戦というより、焦りに近い感情であった場合、極めて危険。

 

 下手というストレスから解放されたい。そういう逃げの心理だからだ。

 長期戦になっても俺は構わないんだぜ、という腰を据えた闘志がないときの顕著なサインだ。

 

 基本的に、思うように事が進んでいるときのイメトレよりも、事が進まないときの心の在り方を考えるべきだ。

 大抵は苦しい姿は想像したがらないものだが、それ故強みになる。

 

 この世は不本意と不条理に満ちているが、不幸でできているかどうかは当人が己の苦境をどう評価するかに懸かっている。

政治家と法律家の相違

 政治家はマスゴミとまで揶揄される存在や大衆の声をこれほどまでに恐れるのに対して、法律家はなぜ恐れないのか。

 

 まず法律家は政治家と違いバカではない、と言うと語弊があるが、バカには絶対に就くことのできぬ職種なのだ。

 故に素人同然の一般市民やマスゴミ、或いは評論家などが専門領域において自分より正しいかもしれないということなど有り得ないと理解している。

 

 次に、法律家にとってそいつらは利害関係者ではない。

 全くもって支持など不要なのである。

 どれだけ騒がれようともそれで自分が引き摺り下ろされることなど有り得ないと理解している。

 

 法律家にとっての利害関係者は極論、顧客と裁判官のみである。

 極めて迂遠かつ穿った考え方をすれば政治家も影響を与えないではないものの、三権分立という建前と圧倒的知識差という実情の両極を以てして政治による影響なぞ殆ど無いのである。

 

 つまり人気商売ではないのだ。

 アイドルとスポーツ選手くらいの差があるのである。

 

 簡単に言ってしまえばこれだけだ。

 故に素人は法律を論じても一切相手にされない。金を払わない限り。

 基本的に、法学をかじったことのない人間は表現の自由言論の自由を勘違いしている。

 そんなことは法学部1年生でも分かっていることだが、指摘する者は少ない。

 素人と法律談義をすることは殆ど無駄だからだ。

 

 数学の素人は数学を論じたがらないのに、法律の素人はなぜ法律を論じたがるのだろう。

 同様に滑稽でしかない。

 

 ちなみに政治に関わるものが皆バカなのかというと当然そうでもない。そう、官僚だ。

 熾烈な競争を勝ち抜いた後も薄給激務の扱いの元でハゲ散らかしながら政治家を担ぎ、どうでもいいお祭りを任せ、その隙に日本の法案の8割を決めている。

 議員立法なぞ僅かなもので、しかも往々にして機能しないのだ。

 

 官僚の平均知能レベルより明晰な頭脳を持った政治家が果たして歴史上何人存在したことだろうか。

 かくて官僚国家となっている日本であるが、日本はそもそも風土として「政治家」という存在の活躍を許さない方向へと流れるのだからこうなるのは必然だった。

 

 加えて言えば日本はシンクタンクなどの官僚以外の政治組織の発展が極めてショボく、かと言って政治家になれば政治手腕なぞ評価されない。

 本気で政治の世界で手腕を発揮したらほぼ官僚になるしかないのである。